インドのバンガロール滞在中にタクシーの運ちゃん聞いてみた「そこらを歩いている牛は誰のものか?」という質問に対する答え:
牛は誰かに所有はされておらず、ただそこにいるだけである。そこらで生まれて、そこらの草を食べて、そこらで死んでいく。いわば野良犬の牛バージョン、「野良牛」である
を聞いたときは「おー、なーるほど!」と目から鱗状態だったが、実際にはちょっと違っているのかもしれない。ここの記事にあるとおり、必ずしも野良牛ばかりとは限らないようだ。言ってみれば「放置牛」。えさ代節約のため、というのもさもありなん、という感じである。
でも、あの路上の牛がいなくなったらインドがインドでなくなってしまう気がするなー。
“牛は誰かに所有はされておらず、ただそこにいるだけである”野良牛、放置牛に私はなりたい。 常々「感覚だけの物体にはなれないものか。感覚だけが生きているそれだけの生き物?に私はなりたい。そうなれば人からあらぬ干渉を受けなくていいのに」 と思っていますが、やや、そんな生き方をしている牛がいたかとねたましくなりました。 いやいや、ひょっとして前世がそうであったからあこがれるのか、胃も生まれながらに節約モードであるし。 “牛は誰かに所有はされておらず、ただそこにいるだけである” “ただそこにいるだけである” “ただいるだけである” “ただ ある”